ダークナイト ライジングと宗教戦争

遅まきながらダークナイト ライジングの感想をぽつり。皆さん言われている通り、傑作だった前作「ダークナイト」の続編としては今一つかもしれませんが、エンターテイメントとしてはとても面白かったです。あと、終盤の叙述トリックが不評らしいですが(映画秘宝の町山さんなど)、自分も一度目に見た時は観客を驚かせるための演出により過ぎて、物語的にはノイズだったんじゃないかと思いました。でも、自分は監督のノーラン信者(笑)だからかもしれませんが、二回目に見た時はあの展開はむしろ物語に深みを与えているのではないかと考え直しました。

(※ここからネタバレ注意)

今作でバットマンの最大の敵であるベインは、非常に冷酷で論理的な男で、前作の最大のライバルであるジョーカーでさえ見破る事の出来なかったバットマンの正体をあっさり見破り、ベインが以前いた監獄へとバットマンを幽閉します。

その監獄は何メートルも壁が立ちはだかる穴の底なのですが、一度だけその壁を監獄で生まれ育った子供がよじ登り、脱出に成功したという伝説が残っています。この子供がベインだと錯覚させるような演出がなされる訳ですが、実はバットマンに協力していた女社長のミランダが監獄で生まれ育った子供であり、ベインはミランダの脱出を助けた看守で、今までのゴッサムシティを壊滅させる計画は全てベインではなくミランダの意思の元に実行されていた事だと判明します。

ここでバットマンVSベインという構図が崩れてしまう事が不満を買っているようなのですが、ベインという冷酷で論理的な男は、実はミランダという女性に対する信仰にも近い一方通行の恋愛感情(ミランダはベインのことを友人だと明言しています)こそがこの映画の肝だと思います。

これは評論家の宇野常寛さん的に言えばベインは決断主義(無根拠を織り込み済みで特定の価値観にコミットメントする)に走った訳ですが、ベインの拠り所であるミランダ自身も、亡き父の亡霊に取り付かれて、一神教にさらに一神教入れ子になっているような不完全な構造に見えます。一方、バットマンはベイン達が暴走させた中性子爆弾からゴッサムシティを守るために、中性子爆弾を一人で海上へと運んで爆発させます。キリストが人類の罪を背負って十字架に掛けられたように、中性子爆弾という人類が生み出してしまった科学の脅威をバットマンが背負い込み、彼はゴッサムシティを救った英雄として人々の前から姿を消しました。こうしてみると、ダークナイト ライジングは不完全な一神教がボコボコと発生するバトルロワイヤルを、バットマンが自己犠牲によって神となり、ゴッサムシティを救ったという話になって前作とのテーマ的な繋がりがより深まるのではないでしょうか。

アヘ顔ダブルピースは私たちに何を投げ掛けているのか?

 日本人の父とアメリカ人の母を親に持ち、24歳で来日するまでニューヨークで育ったという異色の経歴を持つエロ漫画家『新堂エル』が、2011年に発売した二作目となる単行本『TSF物語』は、遺伝子治療の影響で突然女性の体になってしまった元男の子のタクミが堕ちていく様を描いた表題作『Takumi ga Seitenkan shite Fuck sare makuru物語』(以降、TSF物語と表記する時はこの作品を指す)が、そのハードな描写で発売当初から大きな注目を集め、単行本発売から数ヶ月でアニメ化されるなど2011年を代表するエロ漫画のひとつとなった。

 このTSF物語はタイトルからも分かる通り、TS(トランスセクシャル)=性転換をテーマにした作品であり、一般的なTSモノは男性から女性への性転換を扱った作品が多く、今作もそれに当てはまる。また、新堂エルのデビュー作『晒し愛』が、露出狂という性癖を持った少女を主人公に据えつつ、あくまで彼氏とのセックスに主眼が置かれていたのに対し、このTSF物語の方も女体化したタクミを主人公にしながらも、親友やクラスメートたちや見知らぬ痴漢など複数の相手と関係を持つという特徴を持っている。

 さて、ここで具体的な作品の内容に入る前に、新堂エルの代名詞ともなっているアヘ顔ダブルピースという言葉についても触れておこう。元々この言葉は、特徴的な台詞回しで有名なエロ漫画家『みさくらなんこつ』が原画を務め、2010年に発売された美少女同人ゲーム『信じて送り出したフタナリ彼女が農家のおじさんの変態調教にドハマリしてアヘ顔ピースビデオレターを送ってくるなんて……』が元ネタとなっており、性的快感を感じてアヘ顔(白目を剥いて歪んだ顔)をしながらダブルピースをしている様を指している。『信じて送り出した〜』はフタナリという男性器と女性器を持った両性具有の人間を扱ったジャンルであり、実はアヘ顔ダブルピースという言葉の始まりには、性同一性(自身がどの性別に属するかという感覚、男性または女性であることの自己の認識《出典:wikipedia》)の揺らぎという要素が大きく関わっている。

 では、これらを踏まえてTSF物語という作品に入っていこう。まず初めに目に付く要素としては、女体化した主人公タクミとその親友である遼との関係性だ。一話で遺伝子治療の影響で女体化したタクミが学校に戻ってきた時、他の男子クラスメートたちが美少女になったタクミを持て囃し、最初から女性として扱ったのに対し、親友である遼は男子クラスメートたちからセクハラを受けているタクミの助けに入り、『男の胸揉んで楽しんでいるんじゃねぇよ』と言い放つ。このシーンから分かる通り、遼は女体化したタクミを男として扱っている。また、一話の後半で徐々に女性の体を受け入れ始めたタクミに対し、『タクミは誰よりも女好きなやつだ…ッ! 男に囲まれて喜ぶような――淫乱女じゃない!』と言って強引にタクミを犯すなど、女体化したタクミから失われた男性性(男らしさ)の象徴となっているが、その一方で、タクミとセックスをする最初の人間であり、複雑なジェンダートラブルを抱えている人物でもある。

 男性性=男らしさを失い、女体化したタクミと、その親友であり、男らしさを保とうとしながらもタクミを犯してしまう遼は、一種の合わせ鏡のような存在に見える。しかし、TSF物語において遼は特権的な地位を占めることなく、タクミは二話で曽我原という女生徒と共に電車に乗った際に痴漢に遭うが、『誰のでもいいんだ 遼のでも… 顔すら知らない痴漢のでも オレの身体は、チ×ポさえブチ込んでくれれば……悦ぶんだ』と心の中で思い、この作品で男性性を象徴していたはずの遼はあっさりと相対化され、三話で再度タクミとセックスをしたにも関わらず、『あっ、でもひとつ分かった気がする… 遼とするのも気持ちイイ』と再び相対化を強調されてしまい、その後は話の端役に降格してしまう。

 では、遼という男性性を失ったタクミはその後、どのような運命を辿るのだろうか? 四話の冒頭、タクミは自分の体が全身性感帯になっていると医師に宣告される。これはつまり、誰にどこを触れられても性的快感を覚えてしまうということであり、言い換えると誰か特定の相手を特別だと思えない状態になってしまう。実際、四話でタクミは求められるままに複数のクラスメートたちと関係を持ち、五話では風俗で知り合った中年男性とその知り合いたちと乱交を行うなど急速に堕ちていく。この作品は、ある特定の価値観(大きな物語)をみなが信じることができず、流動性が増した現代社会における動物的な人間像を、エロ漫画という人間の欲望を強烈に反映させた媒体であるからこそ、鋭く抉り出していると言えるかもしれない。

 だが、TSF物語はそれだけでは終わらない。流動性が増した現代社会の状況を反映させたかのように、次々と誰彼かまわずセックスをするタクミだが、五話のラストにおいて、とうとう妊娠してしまったことが発覚する。タクミは「…これは私が女の子になって… …初めて、本当に自分で決めたことだから…」とお腹に宿した子供を産む決意をし、出産費用を捻出するためにさらに身を堕としていく。そう、ここに来て初めて、今まで流されるばかりであったタクミは主体的に選択を行うのだ。しかし、どうしてその契機が妊娠であったのだろうか? 筆者が想像するに、どこまでも流動的になった現代社会において、それでも何か固定のモノを探そうとした時、新堂エルという作家は『家族』を選んだのではないかと思われる(五話と最終話の間に挿入されている短編が、父親に虐待され、家出をした女の子がヒロインであることもひとつ示唆的だ)。

 そして、最終話。家族を持とうとする代わりに、どこまでも身を堕としていくタクミの前に現れたのは、タクミが女体化してから交友が始まった女友達の曽我原であった。彼女はタクミと同じように遺伝子操作を行い、体を男性化してタクミの前に現れる。曽我原はタクミとセックスをし、「こんなアバズレ妊婦、本気で好きでいられるのなんて… 私くらいしかいないと思うよ? だからタクミ君は私のモノになればいいよ」と言い、タクミの方も「そうだ 私なんか… …もう曽我原しかないない…」と言い、二人は結婚するという急展開を迎える。いささか突拍子のない展開にも思えるラストであるが、性転換という後戻りの出来ない不可逆的な経験をお互いに経ることや、子供を持って家族という固定な関係性を得ることにより、タクミはついに流動的な社会から抜け出すことが出来たのだ。

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

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J-POPのパロディソングから考える日本の未来

 批評的な目線で様々なカルチャーを切り取り、コアなファンを獲得しているお笑い芸人『マキタスポーツ』が昨年九月に発売した音楽CD『十年目のプロポーズ』は、J-POPのヒット曲を構造分析して売れるための曲を作ったとマキタ自身が言うように、J-POPによくある「奇跡」や「つばさ」といったフレーズやコード進行を多用したパロディソングであり、テレビやラジオ番組でこの曲が取り上げられるなど大きな話題を呼んだ。

 マキタが言うには、現在のJ-POP業界は売れるためのヒットの法則によって曲作りが行われている事が多く、『十年目のプロポーズ』はその法則の一種の「ネタばらし」であり、硬直したJ-POP業界を次のステージに移行させるためのパフォーマンスであるとしている。

 しかし、筆者はここで『十年目のプロポーズ』がJ-POPのパロディソングであるという一般的な評価とはまったく別の、そして作者のマキタ自身も恐らく想定していないであろう価値を持ち始めていると考えている。その事について書くためには、マキタスポーツという芸人と十年目のプロポーズという曲についてもう少し詳しく知る必要があるだろう。

 そもそも、この十年目のプロポーズという曲は、出来ちゃった結婚によって結婚式を行わずに籍を入れた夫婦が、結婚生活十年目という節目の年に再びプロポーズをしようというかなり具体的なストーリーを持っている。その理由についてマキタは、ヒットの法則だけで作曲をしてもどこかで聞いた事があるような曲にしかならないため、個人的な事柄を歌詞に入れてオリジナリティを上げるためだと言う。そう、実は十年目のプロポーズという曲は、出来ちゃった結婚をしたマキタ自身の実体験を元にして作られた曲でもあるのだ。この事によって、十年目のプロポーズは結果的にかもしれないが、かなり複雑な構造を持った曲になっている。

 どういう事だろうか? 今度は十年目のプロポーズの歌詞に注目してみよう。マキタがJ-POPでよく使われていると指摘している「奇跡」「つばさ」「桜」「トビラ」といった言葉が、ストーリーに沿って歌詞の中で巧みに配置されているのは勿論だが、「くりかえす毎日」という言葉が何度も印象的に使われている。そして、歌詞の最初に登場する「くりかえす毎日」は「退屈な日々」というネガティブな言葉が後に連なるのに対し、最後に登場する「くりかえす毎日」は「大切な日々」というポジティブな言葉が迎えられている。つまり、十年目のプロポーズという曲は、くりかえす毎日を最終的に肯定するという構造になっている。くりかえす毎日は言い換えると日常であり、私たちが普通に過ごしている日々の事だと言えるだろう。この歌詞自体が、巷に溢れるJ-POPを元に作られた十年目のプロポーズという「普通」の曲を、内部から補強するという一種循環した構造になっているのだ。

 このように、十年目のプロポーズは念入りに作りこまれたパロディであり、また現在のJ-POP業界を皮肉るという側面も持った優れた曲だ。しかし同時に、作者のマキタスポーツ自身の実体験を元にして作られている。ここでマキタスポーツという芸人がテレビで何本もレギュラー番組を持つような売れっ子お笑い芸人だったり、あるいはPerfumeきゃりーぱみゅぱみゅをプロデュースした中田ヤスタカのような有名ミュージシャンだったら、この十年目のプロポーズという曲は、センスの良いパロディソングという事で終わっていただろう。だが、筆者も大変残念に思っている事だが、マキタスポーツは上手過ぎてブレイク出来ない芸人と評される事があるように、未だに売れっ子と呼ぶには遠い位置にいる。その事を踏まえて十年目のプロポーズという曲を聴いた時、私たちはまったく新しい発見をする事が出来るだろう。

 例えば、十年目のプロポーズで強調されている「くりかえす毎日」。それを肯定するという事は、私たちが日々過ごす普通の毎日を受け入れる事であり、言い換えると自分自身に「普通」である事を許容するという諦めと言えるかもしれない。そして、マキタスポーツという売れっ子=「特別」になれない売れない=「普通」の人間が、十年目のプロポーズという曲を作ってしまう行為にもそれは言えるかもしれないし、また巷に溢れるJ-POPを元にして作られた十年目のプロポーズという「普通」の曲を聴いている私たちにも、歌詞を通して普通である事への諦めが突きつけられる。

 自分はこんな普通の曲で感動してしまう訳がない――十年目のプロポーズという曲を聴く時、こんな感情がかすかに頭を過ぎる人も多いだろう。だが、この十年目のプロポーズが発売された去年、つまり2011年の状況について考えると、多くの人々が人間の無力さを痛感した年でもあるはずだ。くりかえす毎日の中で突然訪れた重大な危機に際して、総理大臣や優秀な大学を卒業したはずの大企業の幹部、そして自分自身も含めて、みんなを救ってくれるスーパーマンのような特別な人間は一人としていなかった。

 もう一度、十年目のプロポーズに戻ってみよう。この曲は巷に溢れた、数年もすれば忘れてしまうジャンクのようなJ-POPの曲たちを分析し、作られた。そして、今の私たちの目の前に山積みとなっているのは、原発問題を筆頭とするたくさんの厄介な問題たちだ。問題をすぐに解決してくれる特別な人間など一人もいない事はもう明白で、私たちは互いに別の意見や立場を持つ人間と手を取り合い、協力し合わなければならない所まで既に来てしまっている。まるでそれは、日本という同じ家に住んでいたにも関わらず、徐々にお互いに関心を失い、冷め切ってしまった日本人という夫婦たちが、再びプロポーズをするような困難な作業だ。けれども、十年目のプロポーズというジャンクの山から生まれてきた曲を、普通に良いと思える人たちが増えてきた時、筆者はそんな奇跡が起こるような気がしている。

十年目のプロポーズ

十年目のプロポーズ