J-POPのパロディソングから考える日本の未来

 批評的な目線で様々なカルチャーを切り取り、コアなファンを獲得しているお笑い芸人『マキタスポーツ』が昨年九月に発売した音楽CD『十年目のプロポーズ』は、J-POPのヒット曲を構造分析して売れるための曲を作ったとマキタ自身が言うように、J-POPによくある「奇跡」や「つばさ」といったフレーズやコード進行を多用したパロディソングであり、テレビやラジオ番組でこの曲が取り上げられるなど大きな話題を呼んだ。

 マキタが言うには、現在のJ-POP業界は売れるためのヒットの法則によって曲作りが行われている事が多く、『十年目のプロポーズ』はその法則の一種の「ネタばらし」であり、硬直したJ-POP業界を次のステージに移行させるためのパフォーマンスであるとしている。

 しかし、筆者はここで『十年目のプロポーズ』がJ-POPのパロディソングであるという一般的な評価とはまったく別の、そして作者のマキタ自身も恐らく想定していないであろう価値を持ち始めていると考えている。その事について書くためには、マキタスポーツという芸人と十年目のプロポーズという曲についてもう少し詳しく知る必要があるだろう。

 そもそも、この十年目のプロポーズという曲は、出来ちゃった結婚によって結婚式を行わずに籍を入れた夫婦が、結婚生活十年目という節目の年に再びプロポーズをしようというかなり具体的なストーリーを持っている。その理由についてマキタは、ヒットの法則だけで作曲をしてもどこかで聞いた事があるような曲にしかならないため、個人的な事柄を歌詞に入れてオリジナリティを上げるためだと言う。そう、実は十年目のプロポーズという曲は、出来ちゃった結婚をしたマキタ自身の実体験を元にして作られた曲でもあるのだ。この事によって、十年目のプロポーズは結果的にかもしれないが、かなり複雑な構造を持った曲になっている。

 どういう事だろうか? 今度は十年目のプロポーズの歌詞に注目してみよう。マキタがJ-POPでよく使われていると指摘している「奇跡」「つばさ」「桜」「トビラ」といった言葉が、ストーリーに沿って歌詞の中で巧みに配置されているのは勿論だが、「くりかえす毎日」という言葉が何度も印象的に使われている。そして、歌詞の最初に登場する「くりかえす毎日」は「退屈な日々」というネガティブな言葉が後に連なるのに対し、最後に登場する「くりかえす毎日」は「大切な日々」というポジティブな言葉が迎えられている。つまり、十年目のプロポーズという曲は、くりかえす毎日を最終的に肯定するという構造になっている。くりかえす毎日は言い換えると日常であり、私たちが普通に過ごしている日々の事だと言えるだろう。この歌詞自体が、巷に溢れるJ-POPを元に作られた十年目のプロポーズという「普通」の曲を、内部から補強するという一種循環した構造になっているのだ。

 このように、十年目のプロポーズは念入りに作りこまれたパロディであり、また現在のJ-POP業界を皮肉るという側面も持った優れた曲だ。しかし同時に、作者のマキタスポーツ自身の実体験を元にして作られている。ここでマキタスポーツという芸人がテレビで何本もレギュラー番組を持つような売れっ子お笑い芸人だったり、あるいはPerfumeきゃりーぱみゅぱみゅをプロデュースした中田ヤスタカのような有名ミュージシャンだったら、この十年目のプロポーズという曲は、センスの良いパロディソングという事で終わっていただろう。だが、筆者も大変残念に思っている事だが、マキタスポーツは上手過ぎてブレイク出来ない芸人と評される事があるように、未だに売れっ子と呼ぶには遠い位置にいる。その事を踏まえて十年目のプロポーズという曲を聴いた時、私たちはまったく新しい発見をする事が出来るだろう。

 例えば、十年目のプロポーズで強調されている「くりかえす毎日」。それを肯定するという事は、私たちが日々過ごす普通の毎日を受け入れる事であり、言い換えると自分自身に「普通」である事を許容するという諦めと言えるかもしれない。そして、マキタスポーツという売れっ子=「特別」になれない売れない=「普通」の人間が、十年目のプロポーズという曲を作ってしまう行為にもそれは言えるかもしれないし、また巷に溢れるJ-POPを元にして作られた十年目のプロポーズという「普通」の曲を聴いている私たちにも、歌詞を通して普通である事への諦めが突きつけられる。

 自分はこんな普通の曲で感動してしまう訳がない――十年目のプロポーズという曲を聴く時、こんな感情がかすかに頭を過ぎる人も多いだろう。だが、この十年目のプロポーズが発売された去年、つまり2011年の状況について考えると、多くの人々が人間の無力さを痛感した年でもあるはずだ。くりかえす毎日の中で突然訪れた重大な危機に際して、総理大臣や優秀な大学を卒業したはずの大企業の幹部、そして自分自身も含めて、みんなを救ってくれるスーパーマンのような特別な人間は一人としていなかった。

 もう一度、十年目のプロポーズに戻ってみよう。この曲は巷に溢れた、数年もすれば忘れてしまうジャンクのようなJ-POPの曲たちを分析し、作られた。そして、今の私たちの目の前に山積みとなっているのは、原発問題を筆頭とするたくさんの厄介な問題たちだ。問題をすぐに解決してくれる特別な人間など一人もいない事はもう明白で、私たちは互いに別の意見や立場を持つ人間と手を取り合い、協力し合わなければならない所まで既に来てしまっている。まるでそれは、日本という同じ家に住んでいたにも関わらず、徐々にお互いに関心を失い、冷め切ってしまった日本人という夫婦たちが、再びプロポーズをするような困難な作業だ。けれども、十年目のプロポーズというジャンクの山から生まれてきた曲を、普通に良いと思える人たちが増えてきた時、筆者はそんな奇跡が起こるような気がしている。

十年目のプロポーズ

十年目のプロポーズ