アヘ顔ダブルピースは私たちに何を投げ掛けているのか?

 日本人の父とアメリカ人の母を親に持ち、24歳で来日するまでニューヨークで育ったという異色の経歴を持つエロ漫画家『新堂エル』が、2011年に発売した二作目となる単行本『TSF物語』は、遺伝子治療の影響で突然女性の体になってしまった元男の子のタクミが堕ちていく様を描いた表題作『Takumi ga Seitenkan shite Fuck sare makuru物語』(以降、TSF物語と表記する時はこの作品を指す)が、そのハードな描写で発売当初から大きな注目を集め、単行本発売から数ヶ月でアニメ化されるなど2011年を代表するエロ漫画のひとつとなった。

 このTSF物語はタイトルからも分かる通り、TS(トランスセクシャル)=性転換をテーマにした作品であり、一般的なTSモノは男性から女性への性転換を扱った作品が多く、今作もそれに当てはまる。また、新堂エルのデビュー作『晒し愛』が、露出狂という性癖を持った少女を主人公に据えつつ、あくまで彼氏とのセックスに主眼が置かれていたのに対し、このTSF物語の方も女体化したタクミを主人公にしながらも、親友やクラスメートたちや見知らぬ痴漢など複数の相手と関係を持つという特徴を持っている。

 さて、ここで具体的な作品の内容に入る前に、新堂エルの代名詞ともなっているアヘ顔ダブルピースという言葉についても触れておこう。元々この言葉は、特徴的な台詞回しで有名なエロ漫画家『みさくらなんこつ』が原画を務め、2010年に発売された美少女同人ゲーム『信じて送り出したフタナリ彼女が農家のおじさんの変態調教にドハマリしてアヘ顔ピースビデオレターを送ってくるなんて……』が元ネタとなっており、性的快感を感じてアヘ顔(白目を剥いて歪んだ顔)をしながらダブルピースをしている様を指している。『信じて送り出した〜』はフタナリという男性器と女性器を持った両性具有の人間を扱ったジャンルであり、実はアヘ顔ダブルピースという言葉の始まりには、性同一性(自身がどの性別に属するかという感覚、男性または女性であることの自己の認識《出典:wikipedia》)の揺らぎという要素が大きく関わっている。

 では、これらを踏まえてTSF物語という作品に入っていこう。まず初めに目に付く要素としては、女体化した主人公タクミとその親友である遼との関係性だ。一話で遺伝子治療の影響で女体化したタクミが学校に戻ってきた時、他の男子クラスメートたちが美少女になったタクミを持て囃し、最初から女性として扱ったのに対し、親友である遼は男子クラスメートたちからセクハラを受けているタクミの助けに入り、『男の胸揉んで楽しんでいるんじゃねぇよ』と言い放つ。このシーンから分かる通り、遼は女体化したタクミを男として扱っている。また、一話の後半で徐々に女性の体を受け入れ始めたタクミに対し、『タクミは誰よりも女好きなやつだ…ッ! 男に囲まれて喜ぶような――淫乱女じゃない!』と言って強引にタクミを犯すなど、女体化したタクミから失われた男性性(男らしさ)の象徴となっているが、その一方で、タクミとセックスをする最初の人間であり、複雑なジェンダートラブルを抱えている人物でもある。

 男性性=男らしさを失い、女体化したタクミと、その親友であり、男らしさを保とうとしながらもタクミを犯してしまう遼は、一種の合わせ鏡のような存在に見える。しかし、TSF物語において遼は特権的な地位を占めることなく、タクミは二話で曽我原という女生徒と共に電車に乗った際に痴漢に遭うが、『誰のでもいいんだ 遼のでも… 顔すら知らない痴漢のでも オレの身体は、チ×ポさえブチ込んでくれれば……悦ぶんだ』と心の中で思い、この作品で男性性を象徴していたはずの遼はあっさりと相対化され、三話で再度タクミとセックスをしたにも関わらず、『あっ、でもひとつ分かった気がする… 遼とするのも気持ちイイ』と再び相対化を強調されてしまい、その後は話の端役に降格してしまう。

 では、遼という男性性を失ったタクミはその後、どのような運命を辿るのだろうか? 四話の冒頭、タクミは自分の体が全身性感帯になっていると医師に宣告される。これはつまり、誰にどこを触れられても性的快感を覚えてしまうということであり、言い換えると誰か特定の相手を特別だと思えない状態になってしまう。実際、四話でタクミは求められるままに複数のクラスメートたちと関係を持ち、五話では風俗で知り合った中年男性とその知り合いたちと乱交を行うなど急速に堕ちていく。この作品は、ある特定の価値観(大きな物語)をみなが信じることができず、流動性が増した現代社会における動物的な人間像を、エロ漫画という人間の欲望を強烈に反映させた媒体であるからこそ、鋭く抉り出していると言えるかもしれない。

 だが、TSF物語はそれだけでは終わらない。流動性が増した現代社会の状況を反映させたかのように、次々と誰彼かまわずセックスをするタクミだが、五話のラストにおいて、とうとう妊娠してしまったことが発覚する。タクミは「…これは私が女の子になって… …初めて、本当に自分で決めたことだから…」とお腹に宿した子供を産む決意をし、出産費用を捻出するためにさらに身を堕としていく。そう、ここに来て初めて、今まで流されるばかりであったタクミは主体的に選択を行うのだ。しかし、どうしてその契機が妊娠であったのだろうか? 筆者が想像するに、どこまでも流動的になった現代社会において、それでも何か固定のモノを探そうとした時、新堂エルという作家は『家族』を選んだのではないかと思われる(五話と最終話の間に挿入されている短編が、父親に虐待され、家出をした女の子がヒロインであることもひとつ示唆的だ)。

 そして、最終話。家族を持とうとする代わりに、どこまでも身を堕としていくタクミの前に現れたのは、タクミが女体化してから交友が始まった女友達の曽我原であった。彼女はタクミと同じように遺伝子操作を行い、体を男性化してタクミの前に現れる。曽我原はタクミとセックスをし、「こんなアバズレ妊婦、本気で好きでいられるのなんて… 私くらいしかいないと思うよ? だからタクミ君は私のモノになればいいよ」と言い、タクミの方も「そうだ 私なんか… …もう曽我原しかないない…」と言い、二人は結婚するという急展開を迎える。いささか突拍子のない展開にも思えるラストであるが、性転換という後戻りの出来ない不可逆的な経験をお互いに経ることや、子供を持って家族という固定な関係性を得ることにより、タクミはついに流動的な社会から抜け出すことが出来たのだ。

エロマンガ・スタディーズ―「快楽装置」としての漫画入門

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